日本水泳連盟の主催する日本泳法大会には正しい伝統と深遠な由緒を持つ12の流派が参加出場している。この12流派のうち水府流太田派だけが明治時代の初期にその淵源をもつほか、他の流派はほとんど江戸時代に誕生している。その分布と隆盛の勢いは、だいたい日本文化の発展と各地方の実用上の必要や軍用の武術として奨励された程度にしたがって、それぞれ異なっている。最北には水府流(水戸)、最南には神統流(鹿児島)が見られ、このあいだの各地に各流の発祥がある。
12の流派名を見てみるとだいたい次の4通りの意味から名づけられたようである。
(イ)流派をはじめた人の名前
(ロ)流派がはじめられた地名
(ハ)流派の信条
(ニ)流派の尊厳性をとなえる
などのことがそれである。
各流派の泳ぎを通観すると、共通的な基本泳ぎのほか、一流派の独特な泳ぎ、応用的な泳ぎがあり、それらの技巧には比較的単純なものがあるかと思うと、かなり至難な泳ぎがある。また泳ぎ方の名称も、同名異種のものがあり、異名同種のものが見受けられる。もちろんこれらの中には、細部の点にいたっては全く違っているところがあるのは、当然といえる。
日本泳法各流派の沿革
1.九州・四国に発達した流派
◇神統流
文保2年(1318)、父黒田宗満の命を受けた黒田頼満は島津家犬追物執事役として、近江より薩摩に下向した。この頼満が薩摩黒田家の初代である。その後、頼重(5代)から頼広(6代)、頼季(7代)を経て頼宗(8代)まで、特に水芸を練り、頼宗は明応2年(1493)水迫仙法『捨の業』を成就した。頼宗と二子頼房(9代)頼定(10代)父子三代に亘って水芸を練成し、明応5年(1496)兄頼房が『抜の業』を成就し、明応7年(1498)弟頼定が『差の業』を成就して、水迫仙法『業三品』が成立した。さらに頼定は大永5年(1525)「大永文書」を記し、天文2年(1533)には「神統流道本の巻」(天之序、地之序、人之序)を示した。この頼定を神統流初代宗家とし、代々家伝として受け継がれてきた。
明治時代、第13代清正の実弟雄蔵(石塚家に養子)が14代を継ぎ、その子雄熊が15代を継いだ。大正中期、第15代石塚雄熊から第13代清正の直孫黒田清光に宗家が継承された。第16代宗家清光は、正則游泳協会、続いて系統游泳協会を起こし、昭和8年(1933)、日本游泳連盟への加盟申請に当たって初めて、神統流の泳法を世に公開した。
同連盟には、昭和10年(1935)に加盟承認を得、その後も神統流の普及・発展・保存のために尽力し、昭和54年(1979)5月逝去した。没後、清光の長男清博が第17代宗家を継いだが他界。清光の三男清定が第18代宗家を継承、平成9年(1997)6月に神統流研究会を設立、平成14年(2002)5月に神統流保存会に改称した。平成20年(2008)2月清定の死去により、第16代宗家清光の弟清次の長男清恒が第19代宗家を継承、神統流保存会の会長を兼務し、普及活動を推進している。
◇小堀流踏水術
肥後細川藩では、寛永10(1633)年、甲州浪人河井半兵衛友明を江戸から迎えて、白川の八幡淵で徒士の水練の指導に当たらせた。以来歴代の藩主は游ぎを武用として奨励した。
宝永の頃(1700年頃)には小堀流流祖村岡伊太夫政文はすでに一流をたてて、白川の天神淵で上士の游ぎの指導に当たった。政文の次子小堀長順常春は上士の師範として父の跡を継いだ。この流は藩校時習館の武芸としてその伝習は明治維新まで続けられた。長順は宝暦6(1756)年、踏水訣・水馬千金篇を著し出版した。これは我が国の水泳書籍として最古の刊行である。後に水練早合点も出版された。
5代師範小堀水翁より流風大いに賑わい、稽古場十数カ所、教えを受けた者1万人と称せられた。水翁は游ぎ方と游ぎの名称を確立し、相伝についても体系を整えた。また、「水学行道10カ条」や、游ぎに関して数々書き残している。6代師範猿木宗那は明治34(1901)年、小堀流踏水術游泳教範を出版し、団体教授の分解的方法を明らかにした。明治の中葉7代師範小堀平七は学習院に奉職して、皇室・皇族・華族の指導に尽瘁し叙位、叙勲をうけた。8代師範城義核は京都武徳会に、宗那の次弟西村宗系は長崎・山口にそれぞれこの流を伝えた。
小堀流は手繰游を基本として、立游を特技とする。特に御前游は有名である。
現在、熊本・学習院・京都・長崎にその伝統を保っており、近年、佐賀・青森でも行われている。
八幡淵で行われた河井友明の伝承は、その後絶えたので、明治の末、沼正直によって復興が試みられたが、また絶えてしまった。
◇山内流
大分県臼杵市は地理的に海に面したところにあり、大友宗隣時代(1528年)に既に水練が始まり、のち稲葉藩主が奨励して、元文時代(1730年〜1740年)に一層盛んになっている。さらに明和8(1771)年藩主弘道公時代には水馬術その他の水練技術が次々と練磨されて、御覧前の行事もあり、盛んになった。以上の点より、臼杵にはかなりの水術が発達していたものと思われる。文政5(1822)年10月、四国松山藩士、神伝流の祖伊東祐根の門人、山内久馬勝重が諸国を廻る途中、臼杵に立ち寄っている。山内久馬勝重は水泳の奥義に達した上に甲州流の軍学にも通じていたので当時の藩の太夫加納外記純也が私費を出して、藩士稲川清記に福良、柚の木谷の溜池で教授を受けさせ翌春、文政6(1823)年3月に免許を許されている。
その後、臼杵で稲川清記が師範となり藩の子弟を教授し、藩主ならびに国家老の奨励で次第に盛んとなった。明治25(1892)年町長宇野治光氏の努力で町営になり、流名は山内流と決定して現在に至っている。
山内流は基本泳法として斜横泳・立泳がある。斜横泳は、頭は正面、手は手繰手、足は三節扇足、体位は斜横体で遠泳に適している。応用泳法として武具、旗、花傘持ちなどの携帯泳法は、山内流独特の技術である。立泳の足動作は継扇足を使い持続性をもっている。その他応用泳法として砲術、弓術、水書、旗振り、衣服脱着などがある。
二代稲川清記の門人、矢野亀太郎が明治中期後に別府に創始して、清記流矢野派と呼び現今、大分游泳協会で行われている。
◇神伝流
神伝流は戦国時代の水軍兵法に発祥するが、江戸時代初期、伊豫大洲藩重臣・加藤主馬によって「陰陽中和」「水陸一致」の理が確立された。
その過程では、肱川に垂れる柳の、流れに弄ばれたかと思えばまた戻る様子に妙趣を得たと伝えられている。神伝流の名は、「教語」に記された「天津神の伝にして万法の宗源なり」に由来するが、古くは主馬流と称されており、立体で歩くように泳ぐ「真」、平体で進む「草」、その中間すなわち陰陽中和の「行」は、それぞれ天・地・人をかたどるものである。
いっぽう松山藩は、寛政9(1797)年、大洲藩士・弓削元宣の次男、伊東祐根を水練師範とするが、他藩の士にも教授したため、主馬流の中心は人心では次第に大洲から松山に移って行くことになる。川で発達した主馬流が、瀬戸内海を擁する松山で海游として変化し始めたのは想像に難くないが、同時に祐根と、後に師範を継ぐ嫡子・祐雄は国学に傾倒し、流儀の系譜を古事記に求めた。流儀名に神伝の字が加えられるのも松山以後である。さらに祐雄は、伊邪那岐命を発祥とする身滌が、文禄の役(1592年)出陣に際し貴田孫兵衛により執り行われたという故事に基づき、貴田を加藤主馬の前に第1代として据え、流儀名も「皇朝神征水軍練法」とする、いわば主馬流とは一線を画す大改革を行った。
この時代の門弟に津山藩士・植原正方(翼龍)があり、海国防備が急がれた時代、祐雄と共に一層実用的な泳法の確立に腐心したと伝えられる。のちに祐雄から「皇朝神征水軍練法」の印加皆伝を許され(1848年)、以来この新しい神伝流は津山から各地に伝播することとなるが、植原が江戸詰の際に隅田川に設けた道場には各藩から入門者が相次ぎ、門弟3千人を数えたと言われている。
横体泳法が登場すること、各泳ぎの草・行・真の区別は草書・行書・楷書に例えられることが形のうえでは主馬流との違いであるが、体を沈め浮力を利用すること、そして手足を大きく使うことなどは神伝流本来の基本的な考え方として両者に受け継がれている。
◇水任流
寛永19(1642)年讃岐高松藩主として入封された松平頼重は、水練を武芸の一班とすることを命じた。指南役今泉八郎左衛門盛行は、游泳目録12ヶ条を藩主に奉呈し、翌寛永20(1643)年夏から、高松の掘溜にて藩士に練習をさせた。
盛行が奉呈した12ヶ条、享保4・5(1719)年3代盛増が江戸深川水泳場で授けられた12ヶ条、正徳6(1716)年芦澤弁内が著した伝心游泳録17ヶ条秘伝、明和5(1768)年太田嘉一・芦澤清六から山室儀太夫に伝授した伝心游泳録17ヶ条秘伝ならびに9ヶ条の奥義などの游泳目録などが伝えられている。
幕末までは、特に流名などはなく、「高松御当所流」とされてきたが、明治になり香川県教育会に游泳部を設け大的場に游泳所を開設し、学校制度の中で水練の指導を行い、星野平次郎が「水府流水任遊泳術」と唱え、30ヶ条目録を編草した。大正14(1925)年大日本游泳連盟創設に当たり「水任流」と称するようになった。
昭和40年頃には海での練習が衰微したが、昭和44(1969)年高松市水泳協会の中で再興し、プールでの練習に変遷した。昭和53(1983)年、松平頼明を会長として水任流保存会を結成し、昭和54(1979)年高松市無形文化財第1号に指定された。現在保存会会員により、普及・伝承されている。
2.紀伊・伊勢に発達した流派
◇岩倉流
紀州藩家臣岩倉郷助重昌(知行千二百石)が宝永7庚寅(1710)年に諸士水芸世話を仰せ付けられ藩士に水芸を指南したのに始まる。8代将軍吉宗の時、重昌の門弟吉田丹治、田原唯七などは、江戸深川越中島の水練所で諸藩士に水芸を指南した。
その後、重昌の惣領郷助安員の養子弁左衛門安正は宝暦8戌寅(1758)年に水芸弟子指南を仰せ付かっていたが老齢のため、明和8辛卯(1771)年その高弟川上傳之丞直信に指南役を譲る。川上傳之丞直信の後、川上勝次郎直延、川上傳右衛門と伝承され、川上直幸の時代、明治維新となる。廃藩にともない紀の川での水練道場を開く。
その子傳之丞は明治39(1906)年に職員と練習生約1,500人を引き連れ大日本武徳会和歌山支部水練部に入り水練部長に就任する。この時代川上流といわれたこともある。
昭和24(1949)年傳之丞の意志により川上弘に代わり高弟湯川公美に宗家承認書を贈られ、昭和32(1957)年公美死亡により湯川節雄がこの游泳術を継ぐ。昭和40(1965)年4月14日和歌山県指定無形民俗文化財に指定される。
片手掻分、瓜剥、太刀泳などを特技とする。
現在、和歌山市に岩倉流泳法保存会があり、岩倉流和歌山水練学校が、連綿と同流を伝承している。
◇能島流(野島流)
南北朝分立の頃、伊予の豪族村上義弘が瀬戸内海の水軍(海賊)を征服して自分の配下に治めて大水軍を組織し海賊の棟梁となり能島に本拠をかまえ、軍法を定めた。この軍法が「能島海賊流」といわれ、日本泳法における能島流は第17代宗家多田一郎によって明治年間に出された「能島流游泳術」に記載されているように、多数の伝承の大部分は水軍の戦術書である。
そして水軍兵士に必要な武術として研究され発達した泳法が能島流であるので古い起源となると、歴史的に伝承される書物が少なく不明な点が多いとされている。
しかし、世にいう「紀州三派」と称せられる能島・岩倉・小池の各流派が名実共にその立場を得たのは、江戸時代初期に其々紀州藩に水軍(水芸)の指南として召し抱えられてからである。
寛文9(1669)年名井仙兵衛重勝が水軍の戦術家として水芸指南の職も兼ね、南龍院(徳川頼宣)に召し抱えられ、これより野島流は紀州藩の一派となり、また重勝が野島流遊泳術を完成させ同流派の基礎を定めたので、この時をもって近世における同流派の起源とされている。
名井仙兵衛重勝の時より、仙兵衛武矩、そして氏政に至り野島流を代々伝えるも、文化3(1806)年術法秘書ならびに游泳指南の職を親族である多田善之助安賀に譲った。以来多田氏が代々游泳指南職を継ぎ、その後善左衛門義勝に至り、将軍旗本の游泳指南を命ぜられ家名大いに揚がった。
そして、明治時代には多田忠次郎為詮、その子多田一郎良直と二代にわたり海軍の能島流の指導を行っている。
昭和45(1970)年、第18代宗家巽忠蔵氏より浜寺水練学校師範に宗家を譲り受けた。
◇小池流
元和5(1619)年徳川頼宣が駿河(静岡県)より紀州(和歌山県)へ入国したとき、船手奉行竹本丹後配下の水軍の士として従った小池久兵衛成行を流祖とし、蛙足平泳ぎを基本としている。
4代小池房長は水芸(水泳)の技術優秀なるをもって、藩主より水右衛門の名跡を賜り、以降7代敬信まで代々水右衛門を襲名している。
明治になって和歌山の小池水泳場出身、本間秀二郎が大阪の堂島川に水練学校を開き、浜寺水練学校の初代師範井上康治・富造兄弟をはじめとする多くの人材を産み出し、浪花游泳同士会を結成して阪神地方の水泳普及に大いに貢献した。
幕末の資料によると、小池家は自身の流儀を野嶋流水芸と名乗っていた。その為、阪神地方では小池家の流儀を一般に野嶋流と呼んでいた。
一方伊勢(三重県)田丸では、天明6(1786)年4代房長の門弟、加藤良房が城主の命により、外城田川及び宮川で小池流と称し藩士を指導、以後代々高弟が師範を継承し、廃藩まで続いた。
加藤良房の曾孫竹雄は明治34(1901)年名古屋水泳協会を設立し、京浜地方に広く小池流を普及指導した。竹雄の後継者、長男加藤石雄は昭和6(1931)年9代小池長之助より道統を譲られた為、和歌山・田丸の二系統が統一され、今日の小池流になった。
現在、大阪で小池流泅道会が同流を継承している。
◇観海流
観海流の開祖宮発太郎信徳(武州忍藩の浪士)は、諸国遊歴中に水練の技を修練し、嘉永5(1852)年に津の藤堂藩に立ち寄った。
当時、伊勢湾の海防の任を負わされていた津藩では、よく遠泳に耐えられる観海流の泳ぎを有益な武技の一つと評価し、翌嘉永6(1853)年5月、藩校「有造館」の武術教科に採用した。
宮発太郎はその後津を立ち去ったが、宮より免許皆伝を許された山田省助直温が師の後を受け継ぎ、観海流の教師となった。
山田省助は、明治11(1878)年、初代観海流の家元として道場を再興し、観海流の指導に当たり数多くの子弟を養成した。明治24(1891)年には、二見浦ご滞在中の皇太子殿下(大正天皇)に、観海流の泳法をご覧に供した。この栄誉は、後の観海流振興への大きな原動力となった。
明治30年代以降、観海流の講習を受けるために津市を訪れる県内県外の学校が増えた。また観海流本部では、教師を他府県に派遣しての講習会も行い、観海流は全国各地に伝播普及するようになった。
2代家元の山田羆之進は、大正元(1912)年に海軍兵学校の水泳教員を委嘱され、海軍で観海流の平泅ぎが採用された。
3代家元の山田慶介は、昭和8(1933)年5月、社会体育の功労者として文部省から表彰を受けた。昭和32(1957)年6月には、観海流が津市の無形文化財に指定された。
現在山田謙夫が4代目家元を継承し、津市で観海流教室を開き、勝田清和最高師範らと共に観海流の保存普及に当たっている。
3.水戸に発達した流派
◇水府流水術
水戸藩では、初代徳川頼房、2代光圀以来代々の藩主奨励の下で水泳術が発達した。母体は、戦国期の武術に由来するが、典雅な游芸としての一面も持つ。光圀下命の庶民護身水術の普及も見逃せない。同期、光圀兄藩高松に水任流が興る。
当初、元和期(1618年〜)以降は、伊勢如雲・根本浄雲などによる水府流游術(水戸殿泳ぎ・水府游ぎ)としての稽古であったが、元禄10(1697)年島村孫右衛門正廣が水戸城下北西の那珂川に稽古場を設けてから、島村流を唱える正廣の上町泳ぎと、福地定衛門道利・小松軍蔵正永以来藩庁管理下の稽古場となった下町泳ぎとの2系統に分かれる。
下町古文書としては、伊勢如雲の手と伝えられる「水府流游術始末」・元和5(1619)年や二重熨斗游の創始者阿部伊左衛門幸純が定めた「水術30ヶ条目録」・天明8(1788)年などがある。上町文書としては、島村正廣の曾孫丹治昌邦著の「島村流水術伝書」・文政10(1827)年などがある。両系統とも熨斗游(伸泳)を基本とし、その他抜き技など今日の実用に適う多くの泳種がある。
文政期、9代藩主斉昭の流派統一構想の中で、両系統は「水府流水術」として統一されるが、明治期以後は、再び分裂し、太田派も派生する。
その後、栄枯盛衰幾変遷。現在は、昭和45(1970)年に両系統全教場で組織した水府流水術協会が、県・市等の後援の下、水戸市指定無形文化財の保持団体として、伝承・普及につとめている。
4.江戸(東京)に発達した流派
◇向井流水法
向井流は、江戸幕府御船手頭向井家に相伝されてきた流儀で「お船手泳ぎ」とも称された。
流儀としての形が整えられたのは八代将軍吉宗の頃、六代向井将監正員に依ると云われている。教義は文化4(1807)年9代正直が編述した『向井流水法秘伝書』を根底としている。向井家が幕府の水泳指導を行った事実は『南紀徳川史』にも見え、11代正義の代の御船手廃止に至るまで続けられた。
幕末には、師範免許を有する佐倉藩士、笹沼龍助とその子勝用が流儀の普及に奮励した。
明治4(1871)年廃藩後、勝用は東京に出て柔術を指導するとともに、夏は隅田川浜町にて向井流教場を開いた。向井流にとってこれが新たな伝承の道となり、名手も育成された。
高弟鈴木正家は「向井流水練道場」を、その他の一門は師名を冠して、笹沼・大竹・山敷の諸流派を生じせしめ普及に務めた。中でも山敷派の仲野秀治・岩本忠次郎が結成した向井流共修会では心法・技法・礼儀を重んじての指導がなされた。岩本忠次郎は11代向井正義の三男文哉を十二代宗家に推戴し、自ら「向井流水法論」を著すなど向井流の再興に貢献した。
小樽に於ける岩本門下の浜田均二、竹原栄らによる普及努力の結果、平成3(1991)年小樽市は向井流を江戸発祥のものではあるが、市の文化として定着したとして無形文化財に指定した。
鈴木正家の系列上野徳太郎は、昭和18(1943)年「日本の水術」を著し、戦後は日本泳法大会資格審査首座として重責を担うなど向井流と日本泳法の普及・発展に貢献した。
現在では、文哉の次男、向井二郎が13代宗家を継ぎ、北海道・会津・東京で伝承活動が行われている。
◇水府流太田派
流祖太田捨蔵(1831〜1892)年は元水戸藩士で、水府流上町泳ぎを習得後、江戸講武所に入り、諸流を研鑽して、講武所の三傑といわれた。
明治11(1878)年、太田は講武所の同志と隅田川浜町河岸に「水府流太田派道場」を開き一派を建てた。これが水府流太田派の起源である。
太田は各流派の泳法を研究し、その長所を取り入れ、水府流に太田の独創を加え、あらゆる水勢に適応できる実用の游泳術を創案し、「大日本游泳術」とした。
太田の遺稿をもとに、高橋雄治らが出版した「日本游泳術」「増補改訂大日本游泳術」は同流派の教書である。
4代本田存が、東京高等師範学校で指導したことから、全国の学校を通じて広く伝播し、現在の日本泳法の中で、その游泳人口は一番多い。
この流派は水府流水術をもとに、諸流の長を採り短を補い、整理したものであるから、いきおい泳法の種類が多くなっている。
後記
各流派の沿革については、一部を除いて、平成11年に各流派から新たに提出された資料によりました。
この項についてのご注意、お気付きの点がありましたならば(公財)日本水泳連盟日本泳法委員会までご連絡下さい。 |