古来、わが国には日本古流泳法の各流派がありましたが、明治末期乃至大正初期に西欧近代泳法が伝わり、大正3年第1回全国水泳大会・大正4年第2回極東大会・大正9年オリンピック・アントワープ大会・大正13年オリンピック・パリ大会等の国内水泳大会・国際水泳大会はすべて「日本オリンピック委員会」たる「日本体育協会」の組織の中で行われてきました。現在の「日本水泳連盟」は大正13年10月31日に「大日本水上競技連盟」の名称で創設されました。大正14年3月24日「日本体育協会」の改組が行われ、競技別に統轄団体をつくることになり、「大日本水上競技連盟」が国内水泳及び水泳競技の統轄団体となりました。同年3月30日には、「日本体育協会」に加盟申請を行い、末弘嚴太郎・杉本 伝の両氏が、「大日本水上競技連盟」を代表して「日本体育協会」の役員に選ばれました。
同年4月24日には「大日本水上競技連盟」創立総会が開かれ、連盟規約を定め、名誉主事に飯田光太郎氏を選び、加盟13地区(北海道・東北・関東・北陸・東海・近畿・山陰・山陽・四国・九州・台湾・朝鮮・満州)を以て組織し、同年5月マニラで開かれた第7回極東大会に日本代表水泳選手を選考することから本連盟の事業が始まった。また同年10月には最初の全日本選手権水上競技大会(競泳・飛込・水球)が開催されました。
昭和2年には会長職を設け、初代会長に末弘嚴太郎氏が就任いたしました。昭和3年FINA(国際水泳連盟)に加盟、同4年全国13地区別の加盟を廃止して地方有力水泳団体を直接加盟させて基礎単位にすることに改め、名称も「日本水上競技連盟」と改めました。
昭和10年には全国学生水上競技連盟・関西学生水上競技連盟及び東海学生水上競技連盟を統合して日本学生水上競技連盟が結成され、これが「日本水上競技連盟」に加盟したことにより、本連盟は名実ともにわが国水泳及び水泳競技の統轄団体としての組織・機能を具備するに至りました。昭和14年には理事長職を設け、田畑政治氏が選任されました。
昭和17年戦争の進展に伴い、学徒体育振興会が生まれ、事実上の事業は「大日本体育会水泳部会」に移され、末弘嚴太郎氏が部会長に選ばれ戦時に処し、「日本水上競技連盟」の活動は事実上停止しておりました。
戦後、昭和20年10月31日「日本水泳連盟」と名称を改めて再発足するに当り、日本遊泳連盟を傘下に加え、学生水泳部門を学生部会として組織内に吸収し、一元的に運営する体制をとるに至りました。会長代行の理事長に田畑政治氏が就任、昭和23年には日本水泳連盟会長となり、昭和24年6月15日には待望のFINA(国際水泳連盟)復帰を果しました。
昭和32年新分野として発展したシンクロナイズド・スイミングを含め、競泳・飛込・水球の全競技及び日本泳法を統轄し、水泳を通じてわが国スポーツの振興に努めて今日に至っている団体であります。
(公益財団法人日本水泳連盟設立趣意書より) |